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2013年5月 3日 (金)

好きな写真家1 アジェ

大好きな写真家で世紀末のパリの街角を撮り続けたアジェ(ウジェーヌ・アジェ、 1857~1927年、フランスの写真家)の写真を見ていると、あの頃(十九世紀末から今世紀初め)のパリの街中に引きずり込まれるような気分になる。
もちろんあの頃のパリのことなど知らないし、パリそのものにも行ったことはないのだが、なぜかそんな気持ちになる写真なのだ。
もはや見ることのできなくなってしまったあの頃のパリの「街角」に引きつけられるのはそれがその時、その場所に存在したという紛れもない事実と、もう取り戻すことができないという気持ちとからではないかと思う。
失われた景色に郷愁を覚えるのは誰でもだろうが、それを一枚の写真で、存在していた証拠を突きつけられると取り戻せない景色だけでなく、時間に対しても同じ気持ちを思う。
アジェの写真は街角や路地裏のものが多い。もちろん行商人など街で生活する人たちを撮った写真もあるのだが、やはり彼の写真の素晴らしさ、本質は「街」そのものの写真だと思う、そしてその街角には人の気配が感じられない。
これは当時のカメラのフィルム感度が低く、長時間露光を必要としたため動きのあるものを写し撮れなかった技術的な限界のせいもあるが、それだけではないわけをアジェの写真からは感じる、それはアジェ自身が好んで人気のない場所を選んでいたのではないかということだ。
これは私自信も同じ感覚を持っている。もちろん周りに人がいても写真を撮りたいときには撮るのであるが、そうではなくて、自分が街に対してカメラを構えているときというのは、見ることに集中している瞬間である。そしてそれを楽しんでいるときでもある。
アジェの時代には今よりも遙かに大がかりな道具を持ち歩かなくてはならなかったし、カメラのセッティングにも儀式のような手順を踏まなくてはならなかっただろうから、なおさら見ることに対する「構え」があったかもしれない。そういうとき周りの人の気配は結構邪魔に感じて、被写体である街と、見る側であり撮影者でもある自分自身との関係だけになりたかったのではないだろうか。私自身がそうなのでアジェに対してもそう決めつけてしまうのかもしれないが、彼もカメラを据えて街を見ることがきっと楽しかったのだと思う。
街を撮りながらさまよい歩くことを始めてからかなりの年月が経ったし、この行為は自分にとってのライフワーク的な意味も感じている。それよりもまず、好きだから撮り続けるという気持ちが一番大きいのであるが、どんな街に出かけても街そのものに興味を持ちながら歩いているので写真を撮るのは楽しいし、興味は尽きない。
そうして撮った写真たちは、撮影者の意志とは関係なく、時間とともに記録という側面が大きな意味合いを持つようになる。タイムマシンでもない限り過去にさかのぼって写真を撮ることはできないからだ。
結局写真の根幹にあるものは記録なのだ。
写真による作品主義というものに興味が無いし、それの押しつけもまっぴらごめんなので、自分自身の目で見たものを信じていないような写真には何も感じない。
まず、見ること。これがすべてのはじまりだと思う。この当たり前のことが大切なのだということをアジェは100年以上も前に教えてくれている。

L20378blog密かにアジェっぽいかな~などと思っている写真。原板はRAWデータ、モノクロ処理したもの。

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